RingoStar's diary

映画記録/舞台記録

NTL『フォリーズ』感想

「青春の思い出、出待ち」

NTLでスティーヴン・ソンドハイムのミュージカル『フォリーズ』(1971年初演,2017年版)を観た。衣装や装置が豪華絢爛でカネがかかりすぎるため今まであまり上演されてこなかったと聞いていたが、確かに非常にスペクタクルな作品であった。以前から鑑賞を楽しみにしていたのだが、今回は睡眠不足と持ち前の多動性(じっと座っていられずスクワットなどしたくなる)(演劇鑑賞にとことん向かない)ゆえになかなか画面に集中することができず、かなり内容があやふやである。うとうとしたまま気づいたらラストシーンが終わっていたので、万全な状態で初めから最後までもう一度観たい。(ちなみに、幕間が無かったのも集中力を切らした要因の一つだと思う。2時間半ほどの比較的短時間の作品だったが幕間が無いと脚や脳みそが疲れて私は死んでしまう。)

 

あらすじ

戦間期のNYでワイズマン・フォリーズの団員として活躍したキャストたちが、都市再開発によって劇場が取り壊されるという知らせを受け、同窓会をすることになる。かつてコーラスガールであったサラとその夫で営業マンのバディ、同じくコーラスガールであったフィリスとその夫で政治家のベンの4人を中心に、かつての団員たちが各々の歩んできた人生を振り返り、若かりし頃を懐かしむ。破綻した結婚生活に不満を抱く4人は、劇場に棲むかつての自分たちの幻影に惑わされ、サラは昔恋仲であったベンとの結婚を、バディは自分を認めてくれる愛人との生活を夢想し、フィリスは夫と釣り合うよう勉強を重ねたにも関わらず子どもを産ませてもらえなかったことへの不満を、ベンはサラと結婚する気は無いもののフィリスとは離婚したいと申し出る。それぞれの話し声が飛び交う中、ボロボロの劇場が突然空想の世界のステージに変わり、「Loveland」のナンバーが始まる。そこで4人は自身の気持ちを歌い踊るが、空想の世界から現実の世界に戻ると、そこには廃墟となった劇場があるのみであった。4人は来た道と同じく2組の夫婦としてその場を去っていく。

 

内容は簡単に言うと中年男女による「夏の夜の夢」だろうか?若い頃の幻影と現在の姿が舞台上でオーバーラップすることで、彼らの抱く現状への不満や青春時代への憧れがより重層的に描かれている。また聞いた話によると、この作品が誕生した70年代はベトナム戦争敗北やウォーターゲート事件などによってアメリカ国内に政治や経済への幻滅が漂っていた時代であったといい、『フォリーズ』はそういった世相を敏感に映しとった作品であるという。作中語られる青春時代へのノスタルジーは「無垢なるアメリカ」への憧れとも一脈通じ、土地再開発による劇場の取り壊しや登場人物が現状に抱く不満は、そのまま70年代アメリカにおけるミュージカル界の状況と相似形である。初演時の演出では、最後の場面で劇場のバックドアが開き劇場の取り壊しが相次ぐNYの街並みが観客に示されたというが、思い切った演出である。

冒頭に演出家のドミニク・クックと作者のソンドハイムへのインタビュー映像があり、ドミニク・クックが50歳を迎えたことでこの作品の上演に着手したこと、演者37名オケ21名(多分)のキャスティングに1年を費やした大規模な作品であること、ソンドハイムはこの作品の楽曲を20〜30年代の作曲家に敬意を示し、「真似」して作ったこと(いわゆるティンパンアレー音楽か?)、実際にジークフェルト・フォリーズの同窓会にお邪魔して作品を練ったことなどが語られていた。そのときに気付いたのだが、『フォリーズ』というタイトルには「愚行」という意味の他に、レビュー形式のショーという意味が込められているらしい。ソンドハイムの歌詞には「The Story of Lucy and Jessie」のように韻を踏んだり掛け言葉が多用されるものがあったので、ダジャレが得意なのだろうか。

タイトルにある「青春の思い出、出待ち」というのは、作中で一番印象深かったことである。青春時代、バディとベンは毎日ワイズマン・フォリーズの楽屋口で出待ちをし、サラとフィリスが出てくると一緒にクラブに遊びに行っていた。(最悪じゃん。)町するくらいなら舞台とか好きでレビューも観ていたのかな?と思ったらそんなことはなく、知り合いのスタッフに頼んでこっそり劇場内に入れてもらっているらしい。(最悪じゃん。)そしてサラやフィリス以下コーラスガールたちも案外満更でも無いようで、楽屋ではドレス選びやメイクアップに余念がない。(最悪じゃん。)中年になり、久しぶりに劇場へ出向いた際真っ先に思い出すのは楽屋口で出待ちをしたことであり、青春時代の思い出は出待ちの思い出なのだという。(それでいいのか。)私はマナー違反の出待ちをする人に対して、何が彼女/彼らをそこまで駆り立てるのだろう?と常々疑問に思っていたのだが、後から思い出してみれば意外と青春の1ページになっているのかもしれないね。(出待ちを推奨しているわけではないです。)

半分寝ていて記憶が曖昧だが、音楽も衣装も舞台装置も役者の演技も非常に洗練されていて、とても面白いミュージカルであった。日本でもいつか上演されないかなぁ…

NTL『みんな我が子』感想

「三十路男のイノセンス

NTL夏祭りで上映していた『みんな我が子』(アーサー・ミュラー原作,2019)を観た。1947年に発表されたもので、アーサー・ミュラーを一躍世に知らしめた作品だそうだ。

戦闘機部品の工場経営で財を築いたケラー家の長男クリスが、戦死した弟の元恋人で幼馴染のアニーと結婚しようとするが、弟の戦死を信じようとしない母や獄中のアニーの父から伝言を受け取ったアニーの兄の妨害にあい、次第に自身の父が犯した罪に気づき、最後には父を拒絶してアニーと独立しようとする、という話。

作中、すでに故人である弟ラリーは一切出てこないものの、その存在感は大きく、彼を中心として結びついていた繋がりが、その存在の空虚さゆえに終盤一気に崩壊していく様が見ものであった。

正直、クリスを見ていて私はかなりイライラしてしまったのだが、それは、親の庇護下にぬくぬくと甘んじ、それでいて親の苦労を気にもかけず自分一人ナイーブでいようとする姿勢や、戦時中なら皆が持ちえたであろう親の瑕疵をひどく責め立て、部下を大勢死なせて生き残った自分に関してはアニーが許してくれたからお咎めなし、という都合の良さに、親に養われつつ文句ばかり言う自分の姿が重なったからかもしれない。

いやしかし、クリスは(作中の台詞から察するに)三十がらみの割といい大人である。親への反抗が無条件に許されるのはせいぜい二十歳くらいまでじゃないか?それに、アホくさパターナリズムがうざったいのは分かるが、あの父はちゃんとクリスを愛していたし、家族のためを思って会社経営を続けてきたんだぞ。(別に父を擁護するつもりはないし、自分のしたことの責任は取るべきだが)あんな最期はあんまりじゃないか。クリスはマンガばかり読んで占星術に凝っているフランクを馬鹿にしていたが、きちんと所帯を持って子どもを三人も養っている分、フランクの方がよっぽど立派だと思う。

しかし、三十路になったとき私はクリスより立派に自立できているだろうか……それが不安になった。

テクスト面以外で言うと、ケラー家の父ジョーにはかなりドナルド・トランプの面影を感じ、この作品を2019年に上演したことの意図が割とストレートに伝わってきた。(とはいえ私は何となくジョーに同情的になってしまったのだが。)ジョーの英語は英弱の私にはかなり聞き取りづらかったのだが、スタッフロールに方言指導(?)が入っていたので、あれがそうなのだろうか。また、舞台セットは家の庭オンリーで、そこで話が進むためあまり画面映えはせず、劇評に「映画的」とあったようにそこまで観客と一体となって舞台を作り上げるという感じではないのもあって客席の熱気や反応といったものも(笑い声はたくさんあったけど)そんなに感じられなかった。